1991年有馬記念:ダイユウサクが14番人気の大波乱!
1991年の有馬記念は、競馬史に残る大波乱となった。14番人気のダイユウサクが優勝し、単勝13,790円、複勝1,390円、馬連7,600円という高配当を叩き出したのだ。この年の主役は、間違いなくメジロマックイーンだった。前年菊花賞。そして❜91年天皇賞(春)、阪神大賞典、京都大賞典を制し、最強馬の呼び声も高かった。しかし、2走前の天皇賞(秋)で史上初となる1位入線失格という屈辱を味わっており、鞍上の武豊は大きな心の傷を負っていた。そんな武豊とメジロマックイーンは、有馬記念で雪辱を果たすべく1番人気に支持された。しかし、レースはダイユウサクが豪快に刺し切ってメジロマックイーンは2着に敗れた。3着には、ナイスネイチャが入った。ナイスネイチャは、この年を含め1991年から1993年まで3年連続で有馬記念3着という偉業を達成している。ナイスネイチャの強靭な精神力と底力が改めて証明された。ダイユウサクの勝利は、競馬ファンの度肝を抜いた。14番人気での優勝は、まさに奇跡と言える。この年の有馬記念は、競馬史に残る名勝負として語り継がれるだろう。
メジロマックイーンの魅力はスタミナの持続力だ。豊富なスタミナとへこたれない闘争心によって、ゴール前での驚異的な慣性力による脚力を持続させてゆくのだ。
ダイユウサクは勝因を考えると折り合いがついた事と、タイミング良く4角での内に空いたスペースに、熊沢騎手の好判断で入れたのが良かったし、メジロマックイーンよりも1kg軽い56kgだったというのも、勝因の一つとして挙げられるんじゃ無いだろうか。ダイユウサクの勝利はレコード決着と状態も生涯最高であったのは間違いないはずだ。 ダイユウサクは有馬記念で燃え尽きたのか、年齢からピークを過ぎてしまったんだか知らないが、翌年は6戦して一度も勝利どころか、最高着順は6着と、まさに有馬記念の勝利は”見えない力”による奇跡が起きてしまったようだ。
逆に、5歳になったメジロマックイーンは熟成された完成期を迎える。6戦して5勝、2着1回の成績を収めた。2着になった天皇賞春では小柄な『長距離の遺伝子』を持つライスシャワーのレコードに屈した。
※【メジロマックイーンと私】
天皇賞秋で2着に1秒の大差をつけて圧勝した。ゴールの瞬間に私は『ガッツポーズ』で拳を握りしめていた。だって手元にはマックイーンの数万円の単勝馬券があったのだ。本当なら10万円突っ込むつもりで、気合を入れていたんだけれど、前日に姉の家に遊びに行った際に、あろうことか義理の兄となる姉の旦那さんが、私の財布と彼の財布を間違えてしまったらしく、後日旦那さんから「ごめんな、財布俺の車にあったわ」と謝やられたのだ。車で買い出しに出た時に、こたつの上に置いて合った財布を手に取り出たらしく、そのまま財布は車の中に置き忘れられたのだ。旦那さんのズボンのポケットには本人の財布が入っていた事に気付かなかったんだ。
お陰で、大金を失わずに済んだものだが、『失格』の文字が灯った時には、顔から血の気が無くなり、ただ呆然とテレビの前で動けずにいた。
確かにSTART後のコーナー手前では、ものの見事に他馬の進路を妨害していたのだけれど、そこには『進路を譲ってなるものか』と突っ張っていた若い騎手の存在があった。勿論彼の”我を通す”行為は正論なのだ。正論ではあるのだけれども。この世界は、正論が通用するほど甘くはない。メジロマックイーンの勝利を妨害されてしまった事で屈辱を味わった、巨大な大いなる力によって、”我を通した”若い騎手の将来は塞がれてしまったのであるの。
競馬新聞で未来を塞がれた彼の名を見つけるたびに、悲しくなってしまうのだ。競馬に限らず、この世界は”巨大な力、権力”によって支配されているのは、悲しい現実である。正論だろうが正義だろうが、そんなものは彼らには唯の『邪魔な存在』でしか無い。見えない力によって潰されてしまうのは歴史をみれば一目瞭然なのだ。